わたしの今月の一冊 三冊目


こんにちはloiolです。

本、読んでますか?

この企画もはや3回目。

一回目の時は「本ってどうやって読むんだっけ」くらい久しく本から離れていて、二回目の時は「どうやって選べばいいんだっけ」って本屋で途方に暮れたり。

最近は割と本に触れてきたので、あこういう感じの本好きだったんだわ、とか感覚がつかめてきました。

でも結局自分の好みの範疇以外にはなかなか踏み出せない、何かきっかけがあれば…と思案する日々です。

 

で、この交換日記ならぬ、交換読書感想月誌、といいますか、この企画を通してご参加頂く方々の本を見て、

あ名前は前から知ってるけど手にするきっかけが無かった本だ、とか、

まったく未知だわ、

みたいな本も知る事ができて、こう脳の中の本に関する木の枝が、新しく生えていくような感覚を覚えています。

 

できたら毎月やっていきたい所存です。

もし「わたしもやりたい」って事でしたらいつでもお声がけ下さい。

 

では、以下、今月分です。

ご参加いただきました皆様、誠にありがとうございます。

それから見出し画像はた原しさんによるものです。

本当にありがとうございます。感覚的な絵を描かれるお方なので要確認です。

 

以下、今回の目次です。

・くふ王さん - 織田作之助『夫婦善哉』(めおとぜんざい)

・かえれちゃん2002@コミティアF09bさん - たった7坪のテーマパーク/志賀瞳

・aさん - 音楽の海岸 村上龍

・えこさん - 富嶽百景/太宰治

・オさん - 平松洋子著 『夜中にジャムを煮る』

・yocificoさん - 「飛ぶ孔雀」山尾悠子

・loiol - オリヴァー・サックス「幻覚の脳科学」

 


くふ王さん

織田作之助『夫婦善哉』(めおとぜんざい)

世間の隅っこであくせく働き、あるいはのらくらと放浪する者たちの生活と人情の機微を描いた短編集。具体的な生活の苦労、今月の出費は◯◯に何円、××に何円…みたいなことがひたすら羅列されていたり、どこそこの食い物の味はうまい不味いみたいな卑近なことが事細かに書かれていて、「いや細かいて」「その話もうええて笑」と思わずツッコミをしながら読んでしまうのだが、妙にひきこまれる語り口である。 敢えて高邁なことを語らず、卑近なことを述べて結末も小さくまとまって終わるところになんか愛おしさを感じるし、却って読み手にあれこれ考えを広げさせる効果が出ている。

 

私が好きな町田康という作家がリスペクトとしている人の本ということで、じゃ読もうかなと思って読んだ。ああ確かに影響受けてるかも、と思って興味深く読んだ。 好きな作家が好きな作家…と辿って読むと思わぬ形で本と出会えるのでおもしろい。

 

かえれちゃん2002@コミティアF09bさん

たった7坪のテーマパーク/志賀瞳

メイドを知ったのは、水月というゲームに出てくる琴乃宮雪さんというキャラで知った。

父親と一緒に秋葉原に行ったときに、雪さんと出会った。 当時わたしは中学2年生で多分、手に入れてはいけないような内容なのはわかると思う。

その時からわたしはメイドさんについてすごい興味を持ち、そのあと秋葉原で高1の時に駅前で一緒に働きませんか?と声をかけられてから気になってはいた。

若気の至りで今でも恥ずかしい話だが、当時、生徒会の書記をしていて、生徒会で文化祭に何をしようかと話しになった。 結論から言うと、メイドの格好をして校内をパトロールしようという案に決まり、母校が秋葉原から近かったので生徒会全員でメイド喫茶まで夏の日差しの中自転車で向かったのを今でも覚えている。

これがはじめて行ったメイド喫茶。夢に見ていたメイド喫茶。多分、学生だけが入るような店ではなかったのかもしれない、はじめて見たメイドさんはスク水のメイドさんだった。

スク水にメイドさんってすごい背徳感で高校生の自分には刺激が強くて、あの時のメイドさんへの胸の高鳴りが忘れられなくて、ずっとメイドさんに憧れている。

中でも憧れのhitomiさんというメイドさんがいて、社長兼メイドという素晴らしい人。その自叙伝が「たった7坪のテーマパーク」

hitomiさんが社長になってから、大改革があり「メイドになることを決めた女の子が17歳になり永遠の魔法にかかり生まれ変わる」という言葉を見てから、なんとなく読めなくなってしまいずっと本棚に置きっ放しになってたのだが、この機会にまた読んでみようと思って読みはじめた。

最後まで読んで、いろんなメイドの書籍を読んできたけどこの内容はとても現代的なメイド喫茶の問題(客層スタッフお店、秋葉原の街の現在etc)とこれからメイドの未来、秋葉原の発展みたいなものが200pで書かれていて、私はずっと昔の秋葉原が良かったと考えていたが考えが変わり、読み終わってメイドさんは私の人生にとって、あのとき雪さんに出会わなければ、メイドさんにこんなに救われた事はなかったと思う。

すごい私情が入ってしまいましたが、メイドさん好きには是非読んでほしい1冊です。

 

aさん

音楽の海岸 村上龍

わたしは生々しい文章が好きだと思う。見せつけられる。見たいものも見たくないものも。生の感情だけが好きだ。明日にはもうどうでもよくなってしまうような、なんなら数時間後には気にも留めないような、瞬間の感情、欲望。そしてそれを維持しようとすることで生じる苦痛。

「何かの事故や病気で目がやられるようなことがあったら、すぐに気が狂うかもしれない、実際に見ているものだけがイメージする恐怖から救ってくれるからだ、」

あらすじを書く必要はないと思ったので書かない。これを読んだ誰かがこの本に手を伸ばしても伸ばさなくてもいい、あーそれ読んだことあるよわたしも好きだよわたしは嫌いだな、どう思われても、どうでもいい。そういう類の小説だと思う。

わたしたちは日々、息を吸ったり吐いたりするのと同じくらいの頻度で絶望と対面する。生きていること、いつか死ぬこと、人間から生まれてきたこと、自然には敵わないこと、お金がないと生活できないこと、欲望と絶望の繰り返し。笑えるくらいに。

「恐くて、眠れない夜をどう過ごせばいいのかって聞いたら、あれはどこだったのかな、どうでもいい場所だった。眠くなるまで起きてればいいんだって、言ったわ。」

自分でもコントロールできないことばかりだ。具合は悪くなるし嫌な夢も見る。どんなにいい薬がどんなに先進医療が発達しても、人類が皆健康になることも人類が皆楽しい夢を見て毎日ぐっすり眠れる日も来ない。今までもそんな時はなかったし、これからもずっとない。それは、人類がそのことを受け入れているからだと思う。絶望は終焉ではない。そのことが絶望的だと思うけれど、何度絶望と顔を合わせても、その絶望がわたしを殺すことはない。自殺だって、人間のした一つの選択でしかなく、そこに絶望は手を貸してくれない。

「誰が何と言っても生きていく希望っていうのは、他の誰かへの働きかけと、その誰かの反応だからね。」。誰かが自分のことを大切にしてくれる、優しくしてくれることそれ自体は、生きる希望にならない。期待を押し付けることに意味もない。ただ望んでいる。その究極が音楽だと書いている。

「音楽はそうでしょう?音楽のすべての要素は、他の誰かへの働きかけと、その誰かの反応だから。そういう音楽は非常に限られたもので、この国にはない、ということはね、わたしにも信じられないんだけど、この国は生きていく希望を必要としていないってことなのよ。だから何をやったっていいの。生きていく希望がないってことは、他の人の希望も奪うことはできないってことだからね。わたしが言ってるのは、誰かの子供を殺すとか母親が死ぬとかそんなこの国のテレビドラマみたいなことじゃないのよ。」

自殺を選ぶ人間は、それが最後の救いだと思って自らの命に手をかけるのだと思うけれど、それでも肉体を持つ生き物である限り、血や肉や内臓や細胞は死に抵抗する。だから自ら選んだことなのに死んでしまうまで苦しむのだ。生きるほうへもがく矢印と、死へ向かう矢印、肉体と精神は繋がっていて、例えば緊張すると汗をかいたりストレスで熱が出たり馬鹿みたいに結託してわたし自身を追い詰めるのに、きっと最後の最後、死の瞬間だけは、肉体と精神はあっち側とこっち側に引き裂かれるのではないか。そのことを、自分自身の感情や自我以上に自分自身を生き延びようとさせる力に、わたしはどんな顔で向き合えるのだろう。

「その人が持つハードとソフトのことよ。何をやっても少なくとも神と、自分の心臓からは絶対に罰せられることはないと思うわ。」

 

えこさん

富嶽百景/太宰治

この作品に出会う前のわたしは、すでに擦り切れるほど語られているであろう太宰の名作(斜陽、人間失格、女生徒)を「教養として」斜め読みしては、「まーたなんか言ってんな」くらいの感想しか抱かなかった。尊敬する師がいて、一緒に死んでくれる人がいて、それでこの世の何が苦しかったというのだ。彼のような才能もなければ豊かな感受性を持ち合わせているわけでもない、挫折も苦悩も中途半端にしか知らないわたしには、それがいつまでも分からなかった。富嶽百景は、そんなわたしが太宰治という作家に興味を持つきっかけになった作品だ。彼が世に出した幾つものなかで、いちばん好きな作品でもある。きっと一定数いるであろう、「太宰かぁ 太宰なぁ〜」という人にはぜひ読んでほしい。

初めて読んだとき、今よりもずっとやわらかかった心に、その景色は鮮明に映った。そして、なぜか泣きたい気持ちだったのをよく覚えている。あのときの感覚は不思議なもので、これから長い時間をかけてももう二度と経験できないような気がする。同じ山でも、場所で、時間帯で、そして見る人間の心境で百通りの富士だ。夜をどう過ごしても陽が昇るやるせなさ。この先の人生の糧とするには少しも足らない、ちっぽけなしあわせ。それらを抱えながら日々見上げる富士は、いかほどのものであっただろう。読み終えてふと顔を上げたときの、教室の窓から見える空の青が焼き付いている。風景と心境を重ね合わせるという古典的でベタな手法に、今まで軽蔑すらしていた太宰治に、わたしはこんなにも心を打たれてしまった。

物語の最後、太宰は他人のカメラで富士を切り取り、その姿に別れを告げる。どこの誰の手に渡ったかも知れないこの写真は確かにわたしの胸にもあって、アルバムを見返すように文庫本のページをめくっては何度も眺める。彼はこの山が、やっぱり好きだったのだろう。「理解し得ない圧倒的な存在」を前に戸惑いながらも、そこに何かを見出そうともがくのは同じだと思いたい。富士と対峙した太宰も、この作品を通してはじめて彼を知ろうとしたわたしも。それは途方に暮れるような、笑い出したくなるような、時には悪態のひとつやふたつ吐いてやりたくなるような愛しさであると。これほどまでに強く惹かれるのは、富士の山の引力か、それとも太宰治という男の性分か。きっと、やはり。富士には、月見草がよく似合う。

 

オさん

平松洋子著 『夜中にジャムを煮る』

「一個人の〝食の癖〟」

食事には正解や不正解はおそらくないだろう。
例えば、自分の生活をよりよくしたいと思って
食事の改善から始めるのあれば、
個々人の中だけの試行錯誤になるだろう。
人間の食事にルールがあるとしたら、
それは単なる個々人の癖だろうと思う。

これはあくまで個人の感想だが、
この本はその一個人の〝食の癖〟を寄せ集めた一冊である。

いいなと思ったら真似してみるといい。
不便さを感じるかもしれない。
今までにはない米の美味さに気付くかもしれない。
そして、いつもの自分の生活に戻りたくなるかもしれない。
もしかしたら、生活を見直したいと思うかもしれない。

他人の癖に触れるということは娯楽のような楽しさがある。
この本は食のカテゴリにおいての、そういう本である。
いわゆる人生のバイブルというものになり得る本では決してない。
そうではなく、まるで他人の家のダクトから漏れ出る煮物の
匂いを嗅ぐようなものだ。
端から端まで読まずに感覚的にページをめくってのぞき見してみるといい。

人間というのは、日々変化していくのは当たり前だと思っている。
それに合わせて食べたいものも変わるのも当たり前。
その都度調理方法も変えていく。
筆者がその変化に寄り添った結果、できあがった食の癖は
見ていて小気味が良い。

「海辺で食べるおにぎりと、山で食べるおにぎりは味がぜんぜんちがう。
(中略)それは潮風のせいだ。くちびるにくっついた海の潮が、
米粒を覆う塩気をにわかに引き立たせ、塩見が増す。」
気に入った章で塩の話がある。

筆者は別の本でも潮について熱弁している。
彼女には自分だけの塩があるらしい。
能登半島の海塩である。

それまでスーパーで適当に塩袋を籠に放り込んでいた俺には
筆者の塩の拘りが一等新鮮に思えた。
後に俺の大好きな海「琴引浜」の海塩を料理につかってからは
スーパーの適当なあら塩を遠ざけるようになったのは本当の話である。

料理のうまいまずいは塩加減にかかっている。
この言葉に俺は、ぴしり、となったものだ。

そして今日もこれは台所の戸棚に仕舞われるのだった。

yocificoさん

「飛ぶ孔雀」山尾悠子

電子書籍リーダーを手に入れてからというもの、逆に本を読まなくなってしまいました。読みたい本が電子版にないから、と紙の本を買うのは悔しいですし、電子版はパラパラとめくって好きなとこから読むのにはあまり向いてなくて、本から遠ざかってしまっていました。それでもこの本は珍しく紙、しかもハードカバーで、発売日に本屋で買った本です。

火が燃え難くなった世界の話。世界といっても異世界ではなく日本のどこかの街のよう。

著者の作品はジャンルでいうと幻想文学と呼ばれています。ファンタジーとの違いはよくわからないですし、ストーリーを聞かれてもうまく答えられません。朝方の夢のように、つかみどころがなく、ありえないのに妙にリアルで、しかしそれを淡々と受け入れてしまう、そんな印象を持ちます。物語を期待すると裏切られます。人生と同じです。

著者の書く世界はどの作品も、いつも霧が立ち込め、それでいて埃っぽく、晴れていてもどこか薄暗い。鉱石とか濡れ落ち葉とかカビ臭さとか劇場の舞台裏とかエリック・サティのグノシェンヌ的世界観。

それでも本作は(著者の作品にしては)ポップな仕上がりで、後半のドタバタは森見登美彦作品の「夜は短し歩けよ乙女」や「四畳半神話大系」を思わせます。もっとも、コメディ色はまったくありませんが。

一読しただけではピンと来ないことも多く、何度も読み返すたびに新たな伏線に気づきます。果たしてこの本は面白いのかと噛んでるうちに味わいが増すスルメ本の類です。そうやって世界に深くダイブするのもよいですし、「紙」に書かれた「不燃性」についてメタ的に深読みすることもできそうです。また著者の他の作品ともどことなくリンクしているようにも思えます。そんなことが気になり始めたら、あなたももう幻想世界の住人かもしれません。

 

 

loiol

オリヴァー・サックス「幻覚の脳科学」ハヤカワ・ノンフィクション文庫

 

この文庫シリーズってタイトルで興味を引くものが多いので、色んな本屋に行っても大体見に行く。

で、今回の本はタイトルを見た瞬間に、「絶対これ好きなやつだ」って思った。

帯には本書解説の春日武彦さんの名前が。私は彼の本を大体読んでるくらい好きなので期待が高まる。

後ろのざっくりした概要には以下。

現実には存在しないものを近くしてしまう「幻覚」。これらの多くは狂気の兆候などではなく、脳機能を解明する上で貴重な手がかりになるという。多様な実例を挙げながら減額がいかに私たちの精神世界や文化に影響を与えてきたかを綴る医学エッセイ。

彼の書いた本のリストには「レナードの朝」。

ぱららとめくって、全てが整ったのを確信したので、そのままレジへ。

この本に出会うまで、何か面白い本ないかなって結構何回も色んな本屋の本棚を眺めてたけど、買う時は1分もかからなかった。

 

とにかくめちゃくちゃたくさんの「こんな幻覚があった」っていう実例、それから参考文献からの引用が挙げられてて、そういう辞典的な意味でも読んでて楽しい。

どういう幻覚か、っていうのも体験した人の言葉でつづられてるので見てて楽しい。こんなの見た、聞いた、感じたとか。

患者には食事をしているとき、「口に入れてもみんな盗まれるぞ」と言っている声が聞こえる。何かを落とすと、「おまえの足が切り落とされたらよかったのに」と聞こえる。

 

…と思いきや、何個も見てるとお腹いっぱいになる。大体「訳わかんない、あり得ない」のが多いから。

代わりになぜその幻覚が発生したのかのメカニズムが具体的に解説されていたりするのでそれは見てて楽しい。

視床下部は「覚醒状態」ホルモンであるオレキシンを分泌していて、先天性ナルコレプシーをわずらっている人はこの部位に欠損があることが、現在では知られている。

脳のPETスキャンを受けたところ、後頭葉と頭頂葉の血流が減少していて、それがおそらく幻覚の原因であるか、少なくとも原因である可能性のあることが分かった。

この夫人はドラマチックな幻視を起こしたが、視覚障害も視覚野の病変もなかった。しかし脳幹と中脳と脳橋の一部に異常な損傷のパターンを暗示する神経学的兆候があった。

 

目とか耳とかの部分が正常でも、それを処理する脳に問題があると入力された情報が正常に処理できなくなる、みたいな観点。

んで、その正常に処理できなくなったものをモチーフに、神話とか芸術が生まれたみたいな話。

声の幻聴はあらゆる文化で起こり、たいていはかなり重要視されている。ギリシャ神話の神々も、一神教の神も、しばしば人間に話しかける。
十八世紀まで、声も幻影と同じように、超自然の力、すなわち神か悪魔、天使あ精霊によるものとされていた。

実のところ片頭痛で生じるような模様は、イスラム芸術、古代ギリシャ・ローマや中世のモチーフ、メキシコのサポテカ族の建築物、オーストラリアのアボリジニ芸術の樹皮絵画、アメリカ先住民のアコマ族の陶器、アフリカのスワジ族の籠細工など、ほぼあらゆる文化に何万年も前から見られる。

そのような内的経験を外面化して芸術にする欲求は、先史時代の洞窟壁画の平行線模様から1960年代のサイケデリックな渦巻きアートまで、人類史上いつの時代にもあるようだ。私たちの脳組織に組み込まれている心のなかの唐草模様と六角形が、そもそも私たちに形式美を感じさせるのではないだろうか。

 

なんで間違った処理がそういう「あり得ないすごいもの」として勘違いされるのかっていうと、例えば最愛の人が先立ってしまった老婦人がその幻覚を見る、とかっていう「欲求」みたいのも作用してる、という。

人間にはほかの動物との共通点が、たとえば飲食や睡眠に関する基本的欲求などたくさんあるが、人間特有と考えられる精神的・情緒的欲求や欲望もある。その日暮らしいの生き方は人間には物足りない。私たちは壁を乗り越え、我を忘れ、逃避する必要がある。意味と理解と説明を必要とする。
~自分はいまここにいるという強い感覚を、自分が九rしている世界の美しさと価値を、私たちは求めている。

超常的な存在はあらゆる文化の民間伝承に出てくる。~幻覚経験は、架空の存在とその住みかー天国、地獄、おとぎの国ーをつくり出す。そのような伝説や信仰には、物事を明確にいて人々を安心させると同時に、怖がらせて警告する目的がある。生理学的原因のある夜間の日常的な実体験について、人は物語を紡ぐのだ。

幻覚は、目が覚めているときのどんな経験もかなわないような、興奮と戸惑いと恐怖とひらめきを生み、その結果、(崇高な、恐ろしい、独創的な、遊び心のある)言い伝えと神話が出来上がる。

 

ほんで、個人的に子供の頃に「あれめっちゃ怖かったんだけどなんだったんだ、ていうか説明もうまくできないし」っていう高熱の時の幻覚っぽい夢体験があるんだけど、それにめっちゃ似てる記述があったのですごいアガった。

デヴォン・Bは熱があるとき、精神的あるいは知的な膨張を経験した。「何が奇妙かと言うと、感覚の幻覚ではなくて、抽象的な考えの幻覚だったことで…突然、ものすごく大きくてますます増えていく数(あるいはものですが、私にはそれはこういうものだと明確に説明することができないようなものなんです)への恐怖に襲われます。

幾何級数的に増えていくありえない数字への恐怖と戦慄が募る状態で…~この数字が、世界のごく基本的な原則…絶対に破られてはならない前提を、破っているのではないかと不安でした。

 

あとは、マニアックな知見が知れて嬉しいみたいのもある。例えば以下。

ルイス・キャロルに古典的片頭痛があったことは有名で、その片頭痛から不思議の国のアリスに出てくる大きさや形の奇妙な変化が生まれたのかもしれないと~言われている。

幻視と幻聴ー「幻」と「声」-は聖書で、「イリアス」と「オデュッセイア」で、世界のあらゆる偉大な叙事詩で描写されている~古代インドの聖典「リグ・ヴェーダ」には、片脚を失ったあと鉄の義足をつけて戦争に行った、戦う王妃ヴィシュプラの話が語られている~幻肢は創作というよりむしろ記憶に似ている。

モーパッサンはこの時点で神経梅毒をわずらっていて、病気がさらに進行すると、鏡に映った自分を認識できなくなり、鏡のなかの自分の像にあいさつをし、おじぎをし、握手をしようとしたと言われている。

悪夢を表す「nightmare」「mare」はもともと、眠っている人の胸の上にもたれかかって呼吸を妨げる、悪魔のような女性のことを指していた(この女性はニューファンドランドでは「オールド・ハグ(鬼婆)」と呼ばれていた)。~本当のnight-mareには、まったく異なる種類の恐怖が潜んでいるのであり、チェーンはこれを「不吉なヌミノース(人知を超えた大いなるものに遭遇したときに感じる圧倒的な戦慄や畏れ)」と言っている。

 

最後に二つ、面白いなって思う考察を引用したい。

この患者は右側頭葉の癇癪焦点を切除されたあと、発作を起こさなくなった。~その幻覚が、天啓や啓示の性質を帯びていて、特別なーそしておそらく高貴なー運命を示しているように思える場合はなおさらだ。~たった一人の人間の強烈で情熱的な宗教的信念が、大勢の人々を揺さぶることもある。ジャンヌ・ダルクの人生はその好例だろう。

正式な教育も受けていない農家の娘が、どうしてあのような使命感を覚え、イギリス軍をフランスから追い出す試みに何千という人々を協力させることができたのか~彼女の裁判の記録や同時代の人々の回想から、多くの証拠が得られる。~ジャンヌ・ダルクが恍惚前兆をともなう側頭葉癇癪をわずらっていたかもしれないことが、少なくとも示唆されているのは確かだ。

(セーラムの魔女裁判について)麦角中毒がかかわっていると示唆している人もいる。LSDに似た有毒のアルカロイド化合物を含む麦角菌は、ライムギなどの穀物に感染するおそれがあり、汚染されたパンや小麦粉が食された場合、麦角中毒が起こる可能性がある。これが中世には頻繁に起こり、それがひどい壊疽を引き起こしたかもしれない(それが通称の一つである「聖アントニウスの業火」につながった)。麦角中毒はLSDのものによく似た痙攣や幻覚も引き起こすことがある。

 

全体的に、脳科学的に不思議なものを解明しようって試みであって、かなり不思議なものを「バグ」として見ている感じ。統合失調症的なものは意図的に分けて考えてるっぽいのも、分かりやすさに拍車をかけていると思う(あくまで身体的欠損が原因であるって立ち位置なので)。

ていうか人類の歴史の宗教的なものとか、すっごいものってこういうバグが根っこにあったとしたら、って考えると、この辺りがどんどん解明されていくについてそういう超常的なものも消え失せていく事になる。人類の歴史はだいぶその色をガラッと変える事になる。幽霊の正体見たり枯れ尾花っていうけど、何も不思議なものがない世界、それって一体どうなんだろう。

 

引用してる本が1800年代のやつだったり、幻覚体験自体は患者や送られてきた手紙ベースだったりするので「まことしやか」感は拭えないけど、とにかくごった煮でもすごい量の事例をかき集めて話の筋に肉付けしていくノリなので、めっちゃ読み応えがあったし勢いがある本だった。

解説によると著者はエネルギッシュな熱血漢だったらしい。自伝もあるってことなので出来たら読んでみたいと思った。

ケイトって誰だろね。原題はHALLUCINATIONS。

 


 

という感じです。

今回も、バラエティに富み、もしかしたら一生手に取らないかもしれない本たちを知る事ができたと思うとめちゃくちゃラッキーって感じでした。

 

くふさんのやつ、作者の名前結構目にしませんか?私はめっちゃしてて、勝手に時代劇的なのを書いてる山田風太郎(?)的なものだと思ってましたけど、めっちゃ読みやすそう。ショートショートみたいなのって親しみやすいですよね。大体無駄が無くてスッと入ってくるし。あと好きな作家に関係してる作家とかを辿っていくのも間違いないですよね。

 

かえれちゃんさんのは、めっちゃSTORYがあるっていうか、本そのものもタイトルとかかっこいいし気になるんだけど、その本を取ったかえれちゃんさん自身の背景みたいなののSTORY性がすでに物語になってるのが良い。生徒会の書記やっててそのみんなと夏にチャリで、って辺りでもう「じゃあそれを物語にするのがいいじゃん」って言ってしまいたい気持ちに。

 

aさんのは、また濃いやつきたっていうか、濃いのって読むのに体力とか気力とか使わないと無理なのでaさんはかなりタフだと思う。それから濃いのってリアルっていうか感触が生々しくて、その世界に気持ちごとひっぱられてしまうからその点でもaさんは霊媒師みたいなもんだと思う。筋を読むと物語っていうか対話?みたいのを著者が仕掛けてきてる風でもはや読書っていうか「問答」みたいなノリに。

 

えこさんのは、私も太宰ってなんかあんまっつーかお前夏目とか芥川の流れに乗って雰囲気だけで名前売っただけとちがうか?このフェイク野郎が(←無知な上に乱暴すぎる間違った解釈)って印象を持ってるので、えこさんがそんなに言うならもしかして面白いのかな?ってちょっと思った。第一印象ががらっと変わる時ってめっちゃ大好きになっちゃったりするから太宰のこと大好きになっちゃったらどうしよう。

 

オさんのは、めっちゃ読んで参考にして日常に取り入れたい系っぽいオーラがびしびしするのでいつか見てみたい。塩にこだわるって話だけど、こういうチーズにこだわるとかみたいなのって憧れがある。あるけどどっから始めたらいいのか..みたいになるけど、こうやって本で示唆されてるのから模倣していくってのは結構良い手段なのかもしれない。そもそも本は物語の楽しさだけじゃなくて、具体的に使える知見を得るって側面もあるわけだし。

 

yocificoさんのは、私が大好きな山尾さんのやつでヤッターってなった。なぜなら私は大好きで本を持っているけど一回も読んだ事がないから。めくって目にした事はあるけど何かよく分からなくて一作品も通して読んだ事がないのでこういう感じなんだ~って分かって良かった。yocificoさんの言う電子書籍リーダー以降本を読まなくなって、そんで久々買ったのがこのごっついハードカバーの、幻想界の伝説の存在みたいな山尾さんのやつ、っていうのが、霧深い山奥に棲むと言われていた魔法使いが、物質としての本の復権を実現させたみたいな感じで絵かっこいい。

 

 

と、

 

何か段々本って面白いんじゃないの?って今更ながらに思ってきた次第です。

 

色んな本があるよね。

ありすぎじゃね?ってくらい。

そら自分の好みに合うの探すのむずいわって感じだけど、なんかコツみたいなのがある気がする。

 

あと、全体的にネタバレしちゃってたらごめんなさい。

 

ではまた。