総括 -ウェブ文芸誌 casssis vol.8-


こんにちは、ロロイです。

やや手前味噌ですが、不肖私が主催させて頂いておりますcasssisというウェブ文芸誌のvol.8がめでたく先日リリースにこぎつける事ができまして、僭越ながら各作品の感想を書かせて頂きます。

casssisって?

ツイッターで「いいなこの人、いいツイートされてるな」ってお方に、「一筆お願いできませぬか」とお願いしてまとめたものです。

テーマとか文字数、文のスタイルとか一切縛りを設けていないんですよね。それはお誘いした皆さんがそもそも何を書いてこられるのか興味があったからです。毎回、こちらの予想を気持ち良く裏切って頂いております。また皆様、特にいわゆるアマチュア小説家とかではないのもポインツです。

ツイッターって面白いけど流れていってしまう。私が目の当たりにしている良いツイートをされる方々の魅力の、その一部でも何か形にして残しておければ価値があるのではと思いますし、それをシェアする場があればなお良い、こういうウェブ文芸誌みたいのって好きなんだけどあんまり見かけた事がない、等の理由から展開させて頂いております。

それでは参ります。


 


 

序文 ワーゲンバスに乗って / onett

楽曲とコード進行、それから詩という構成でvol.8の幕を開ける本作が示すのは新しい季節が来るし、新しい何かを探しに行こう、というポジティブなマインドである。

曲はビリージョエルの名曲を思わせるエレピで始まり、夕立、トトロの様な木琴やフルートなどの..そう、1994年くらいのジブリ作品の世界を彷彿させ、いつしか私は雨降る日のバスに揺られてイヤフォンからこの曲を聴きながら濡れた街を見るでもなく眺める。

夏はすぐそこで、しけたツラして裸足にすりきれたビーサン、白いTシャツの若者が埃っぽい乾いた熱風を受け止めている。そこに急な夕立..傘も差さずに罪滅ぼしと青春のもやつきをついでに洗い流して..ポケットの小銭を公衆電話に入れて、いくら鳴らしてみても相手は出なくて..

私のいくつかの思い出や郷愁とかがメロディと絡まりだし、歌詞を目にすると初めて見るものなのに、ああこれは知っている、これに似た感情が私の記憶の奥で呼応している..と思う。

ランドスケープ的であり..郷愁、遠い記憶と共鳴、絵ハガキ、泣きべそ、退屈とくすぶった熱、雨の日のバス停で..

そういう..

 曲がインストだったのも功を奏したと思われる。歌詞はあってもその歌声は読む人その人の声であるべきだからである。だからこそ読み手の遠い記憶と作品はリンクして、作者だけの手から離れてより高みに昇華する。夏の風はわけ隔てなく吹くのである。

昭和は確かにあってまだそこらに息づいているのに遠い郷愁になろうとして久しい。日々は忙しく、誰もが自分の事で精一杯。だからダメな亭主と別れて女手ひとつで子どもを育てる家庭なんてなかなか顧みようとしない。そうして、やさしい世界を夢見て丁寧に生きようとしてみてもやっぱり世間はせちがらいのは仕方が無い。
 
鯛の昆布〆を作るのに酒や水や塩は必要だけど、適当で良い。言い換えると程よくあってくれればそれで事足りる。大切なのは鯛であり、そして包み込む昆布なのだ。タイトル自体が物語りの比喩であり、それからささやかな幸せなラストシーンと昆布〆の味わいが自然と重なる。かみ締める人の悲喜こもごも、それがコンパクトに示されている。
 
私たちは幸せになりたいと願う。そしてもくろみはいつももろくも崩れ去り、最後に思いがけず残るものがある。
ところでめばちといえばマグロだが、「めばちこ」というのはものもらいの方言である。

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およそ感性と呼ばれるものを細かくみていくとやや利己的な気持ちがはりついている場合がある。「こんなセンスの良いものを選べる自分はどうだ」という誇らしく他へアピールする手段に成り下がる事が多々ある。本作において、そういった事を含む感性自体を筆者は放棄する心境にあると述べる。
 
加齢に伴う十分な知見を得た後において目新しいものは限られてくるし、生きていく上で必ず新鮮な目を持ち続けなければならないという事はないし、成熟期とも呼べるのだが心はどこか空虚である。
 
そこに、若年期の自己顕示欲などの毒っけが抜けた純粋な好奇心のようなものが滑り込んできて、再度筆者の心に訴えかける。そうして名も知らぬ花の美しさに目を奪われる。これを私は生命と呼応している状態だと見る。どちらが上でも生かされてるのでもなく対等の、そしてある意味において子どもの様な純粋性を取り戻した心の有様と言える。
 

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過去のcasssisにおいても筆者は引用という形で物語を形付けてきたが、今回はロロイニャーンのツイートが元となっている。
自分は天使であると名乗り、凶暴かつ突飛な発言を遊び半分で撒き散らしては愛して欲しいと懇願し、一人であてもない旅に没入したいと願う異常者の文言が一つのストーリーとして浮かび上がる。
 
私も試しに同じ手法で作品作りを試みた事があるが、まあとにかく時間がかかるしゴールが見えない。手順としては、1.ネタとなる材料を並べる。2.その中から話の骨格となるパーツを選出、組み立てる。3.肉付けとして埋めていく。不足したら再度ネタ集め。
簡単そうだがなかなかうまい事いかない。なにしろ元ネタをいじる訳にいかないので意味合いが微妙に異なってくる。言い回しも自分好みとはならない為、ここで書き手としての自意識を捨てて編集者に成り代わらなくてはならない(但しストーリーテラーとしての自我は捨ててはならない)。
 
元ネタとなれた事は私自身大変光栄であり、何気ないツイートが文脈の中だとこういう見え方がするのかと新鮮な気持ちにもなったし、ひどく嬉しいので第二弾を熱望するが同時に推定作業量が膨大である事を考えると最初で最後の花火であり、少し寂しい。

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旅ものを得意とする筆者の、今回は昭和を舞台としたと思われる作品。悲しいストーリーだが食べ物の記述の仕方(ニセモノジャムがもろりとしたり、人造バターがのつこつとしたり)が面白い。また意図的に情報が削られていてヒントが散りばめられているのも楽しい。
 
東京を出発して真夜中に目を覚ましてパンが配られて支那そばと言う男..年代でいうと昭和50年代頃が舞台と想像される。もっと前だと上野出発?..そして夜行列車なので結構遠く東北まで行く..めっちゃ降雪量が多いので秋田かもっとその先か。妻はその先に居て、男は「前に進む電車に乗るのなら幸せだ」と云うので少なくとも家庭は大事にしている。満員電車にも乗っているのでやはり男は高度成長期の東京に単身赴任をしており、そして西の女というのは、その最中、仕事で頻繁に訪れた地で知り合った女のはずで..
 
結末は悲しいが、しかし最後に不知火(みかんみたいなもの)を食べるシーンが何か未来を感じさせる。どこかのどかでのんきでそこまで悲壮感というより、人の命は尊いのだけどそれすら植物とかと比べたら命はどれも命だし、みたいな無常観あるいは仏教的心境みたいな気持ちが呼び起こされる。雪解けの後に芽吹くものの姿がそこに予見される。

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眠りに関する図書にはほぼほぼ忘我の重要性が説かれている。実際には無意識の状態において脳がPCにおけるデフラグのような再構成処理をしているのだがとにかくその間我々は自我を放棄できる。本作の未来人はその事すら許されない。
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寝ている間も自我を楽しめと詰められる社会の背景にあるのは、コストパフォーマンスの良さだとか、寝る間も惜しんで何かを得ようとする気持ち、いやそうでもしないと生き抜けないという加熱した競争主義がある。
 
これを架空のSFだと笑えれば幸せであって、現実社会の特色とそう大差は無い。何のために競うのか、その意図が形骸化したあとでも人々は走るのをやめない。蹴落として息切れしても安心はできない。ようやく休めるのは身体を壊して寝込むか死ぬか、酒か薬か、あるいは眠りか。

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こちらは実際に眠っている時に見る「夢」っぽさのある物語である。かのつげ義春のねじ式は夢でみた話がベースとなっているが同様のものとしてコマツ岬の生活というものがあり、似た要素を覚える。
 
つまり、自分で見る夢の内、現実の私そのものが登場するケースと、まったく現実の私とは違うんだけどその違う人物が「私」として進行していくケースがあって、本作は後者的である。本作を本当に夢としてみた人がいたらきっとその人はハイヒールでくねくね歩くなんて一度もした事がない人であろう。普段の自分では決してしないであろう言動を夢見るのは変身願望の現われとも捉える事ができる。
 
なので、夢自体の印象というのは「違和感を抱えたままだが、どこかうきうきした(夢の中で変身願望が叶っている為)、私自身」である。そう読んでみると全体的には朗らかでほわわんとしたいかにも夢のお話に見えると、同時にやはり違和感はぬぐいきれない。
 
つまり違和感は本作の様な夢や架空の創作物の中のものだけではなくて、読んでいる私自身の中にも適用されるからだ。現実の自分について内省する時、「こんなの私じゃない」って思いながら現実は「これがあなたです」と突きつけてくる。でも本当の私はこんなじゃない、これが本当の私だとは思えない、と思いながら何となく無責任に自分の人生を進めていく..そういう離人感というのは昨今そこらじゅうに色んな形で巣食っており、自分の事が分からない為に他人の気持ちなんて分からない。

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「窓」、は近代詩の父ことボードレール(フランス人で結構すごい生き方した人)の詩で、翻訳の富永太郎は1925年に24才で夭折したこれまたすごい生き方した人。
さて、イーベルタとは筆者の訳すところの「窓」の意である。注目すべきはその独自性に富んだ訳語である。解読を試みるよりその音の響きを楽しむのが正しい。窓自体のいわんとする事は想像力の可能性を想像せよという事である。目に見える事だけが全てではない、とも言える。
私たちはつい先入観でものを見がちである。まるでそれ以外は存在しないかの様に性急に判断してしまう。灯台下暗し、あるいは頭の上の眼鏡を忘れて眼鏡を探してしまう様に、判断の外に潤沢な物事が息を潜めている。それを忘れるなという話なのだが、行き過ぎると疑心暗鬼ともなりえる。
 

さて、解読は不要とのたまったが

 

生命が生活し、生命が夢み、生命が悩むのである。

レナ・ペリエ、レナ・オルスス、イーベルトゥピア・レナホルティ。

 

上記を見ると、生命とレナが三回ずつ繰り返されている。なので生命はレナである。
が、三つ目のレナだけは「レナホルティ」である。先の二つはポジティブだが三つ目は「悩む」とありネガティブなものである為と推察されるがこの詩自体はむしろ「悩め」と言っているので本来的にはネガティブな意味ではなく、闇の中に光を見ろという類の意味合いである為、レナホルティとは「恐れずに、勇気を持って探索しなさい」という意味の単語であると信じたい。

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vol.7の前編の続きなのだが正直後半だけ読んでもそのPOWERを楽しむ事ができる。とにかく他の追随を許さない情報量、スピード、熱量..しかもジェットコースターさながらに斜め上どころか途中で分裂したり瞬間移動したりループしながら色んな方向から多彩な情報がインプットされるような読書体験。
冒頭の方の、かわいちょうだのハモって嬉しいとかいってる兄霊魂のうざさと堪能しつつ、ギャグなのか恋愛ものなのか探偵モノなのか、途中T山とかメタ的キャラが出てきてガッツリ求愛演説をしたかと思えばラスト付近の完全に狂人のノリで、なんか良い話っぽく終わっていくんだけど、待って。っていう。話がまとまったっていうよりも、なんかもう訳分かんねえしこれでも食らえみたいにパイルドライバー食らわされたみたいな。
 
ギャグっぽいんだけどすれすれでギャグじゃないと思うんですね。だからかつて岡田あーみんがガッツリ変態漫画繰り広げたけど大きな意味で少女マンガであり続けたのと同じ匂いを私は感じるのです(尾玉なみえ的な方に寄らないでいるバランス感覚とも)。
 
じゃあ何がキーなのだと言うと「ピュアネス」である。イメージの洪水がどうあれその根っこにあるのはどうしようもないほどのピュアネスゆえであり、それが伝えられるのが才能なのではと思わざるを得ない。
 

 
壮大かつサイコ、ロマンチックかつグロテスク、限りなく澄んでいる沼、などの形容詞が無限に湧いて仕方が無い。一体何を言っているのですかと尋ねたくなるのだけど意味が分からないかと言われるとそういう訳ではない。聞き覚えはある。ただ聞いたことが無いだけなのだ。
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SSLって何?って立ち止まっている場合ではない。それじゃあ飲み込めない。とにかく読み進めなければ始まらない。読んでいるつもりが読まれているような不思議の国のアリス状態で、夢であって欲しいけどそれにしては悪夢過ぎるので何か別のものであって欲しい怖さがあるが突き抜けた先の発狂寸前の笑いみたいなテイストがある。
 
読み進めていくとぼやけていた視点が徐々にアジャストされるように自分の感覚が作品のそれにピントが合っていくのが分かる。こまごましたものは分からなくて良い。愛なのだ。しかも一個体に過ぎない人間が抱くようなサイズのものではない..そういう風に「そういう事にしておこう」という諦観に似た自我の喪失が認識上起こる。それは決して不快なものではなくむしろ救済に似た色をしている。

 
太古か超未来を舞台とした生命のオーケストラともとれる作品。言語以外の方法でコミュニケートする古代生物(我々の祖先かあるいは子孫)が発する「音」は未体験の言語だがなぜかどことなくイメージが伝わってくるのも未体験である。
 
生命のエネルギー自体がよく考えれば解明しきれておらず、厳密に考えるのであれば全ての運動というのは反射的なものである為、それらに意味を付与せねば理解できないという人間の認識様式の方がいびつとも言えるかもしれない。その視点から見る本作は音楽的であり、よりフィジカルな体験なので、不条理な演劇を観覧する気持ちで臨んだ方が違和感が無い。
 
静と動の違いはあれどベケットのゴドーを待ちながらという戯曲を見ている体験に近く思う。明るくおどけている様で、だからといってそういう物語の筋ではないが悲壮感を持って見るのが正しい訳でもない、というように。
 

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古来からのしきたりの重みやその枠から外れて自由を夢見る気持ち、しきたりを無碍にしたくなかったり青春のどうしようもない憧れとかそういうごちゃごちゃしたものたちが、色彩豊かなイメージで暗号化されているが本作には散りばめられている。
 
そこにあるのは独自性や柔軟性によって自分なりにクリアしようというもがきや、それでも突き当たる壁、それを更に別の手で乗り越えようとする徒手空拳と、別の角度から発生する困難..
 
印象的なのは、突飛なイメージたちの中で唯一の見た事あるものである「ステレオタイプの幽霊」である。石像の様に押し黙って付きまとうそれが最もやっかいで結局ラストにおいても解決策は見つからないのである。
 
つまるところ、自分の分身であり、一生つき合っていく相棒であり、自分ではどうしようもできない自分であり、それは自分のあずかり知らぬ他者や社会や文化が押し付けてきた「あるべき姿」であり、タイトルの〇がそれである。

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おじさんの何が面白いかというと、外部的交流ではなく、頭の中の孤独な楽しみの様子である。おっさんがどれだけ金稼いで良い感じに遊んでるかなんて誰も知りたいとは思わない。しかし年齢を重ねて成功も悔しさも味わって形成された考え方や価値観に基づいて感じている日々の楽しみ、みたいなものはなかなかに味がある。
 
かの内田百閒の本領が発揮されたのは適当にぶらぶらして考えた様な随筆集だけど、同じ輝きが本作にはある。取るに足らないおっさんが何となく独白しているような枯れた良さみたいなのが心地良い(筆者自身がおっさんなのかは定かではないが本作にはそのテイストが十分にある)。昭和っぽいのも要因である。
 
アキバの光景なんてまさに今年の話でもあるのになぜか昭和とかすぐそこにあったようなのに気がつけば結構遠くにいってしまった様な時代のそれを垣間見ているようなノスタルジックさというか空気感。最初の食の話も、良い意味で年を重ねるにつれて精神が良い意味で荒廃していくというか、くだらない、と言うと言葉が悪いが、新しくてきゃっきゃする感じがうざったく思える人達にとっては読んでて胃に優しいというか「くどくない」ので読み物として良質で飽きがこない。

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大切なものとか美しいものとか、綺麗なものについての描写は一歩間違えると押しつけがましかったりイメージが綺麗過ぎて触れていて辟易しがちだが本作はそういうバランスがすっきりしている。勿論ペットが大切なのだというメッセージ性はぶれずにある。すっきりしている理由は大切なものそのものを直接的に言及するのではなく、少しずらしているからである。同じ時間、状況を共有している、という手法で進んでいくために、まるでこちらもその親類か近しい存在として体験している様に感ぜられるためしっくりくる。
 
また「嘘です」ってばっさりいくところと、最後に「呪いをかけました」っていう箇所において、読者はそれまで粛々と進んでた所にばっさり画面が切り替えられる感じになり、興味を引かれる。両方とも少々ショッキングな切り替え方法なので、もしかして..って先を案じるが、両方とも素敵な結末に繋がるのでほっとカタルシスを覚える。
 
こういった思い切りの良い表現はみずみずしい感性によるものと相場が決まっており、その点においても読後感の清涼感は良いものとなる。なにか気分がもやもやしている時に読みたい。

 
イメージがイメージを呼ぶスタイルで、こうした手法は偏り勝ちになる場合があるが本作はコンパクトに形を先細らせずに成功したように見える。イメージの尖り方という意味では、玉造ポポロクロイス、の所がピークかと思える。
 
丸尾末広の漫画の様な、戦争を体験した世代を親に持つ世代の、間接的な、戦時中の記憶が漆黒ベースだが色彩豊かに、悪夢として人生の裏側に張り付いている様子が伝わってくる。
百鬼夜行的な人形劇の如き裏方の賑やかさがにぎやかだが死の香りをまとい、楽しい。
 
およそ悪夢的であるが実際の悪夢はここまで丁寧に世話をしてくれるようには用意されない。それから食に対する欲求が背景にどっしりと構えているのが透けて見える為、どこかのどかである。
 

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カラーとしては全体的に重々しい心の旅の記述だが読者的には語り手が飼っている犬のポジションに収まって彼に寄り添い物語りの中を進んでいく事となる。生きていくのはないものねだりに基づいており、私達が求める光は必ず胸の奥の暗闇があってこそなのだというメッセージが伝わってくる。光があるからこその闇なのかもしれない、とも。
 
その意味で、その闇に寄り添って生きている語り手の姿は一つの正解に映る。
諦観とはまた違った一つの完成型でもあり、そして束の間、かつての光を夢の中に意図せずして見てしまうというのも人間の悲しい性を表現しており読み手は胸を突かれ、そして身につまされる。
 
おいおいと泣ける状況というのはもしかしたら幸せな部類かもしれなくて、本当の悲しみは乾いているという暗示が根底に流れている。だからこそ実はあっさりしているし、許すか許さないかの間でなんて揺れず、必ず許さない。どこか腑に落ちないような、でも確信めいた思いが去来するのだが、作品の終わりとともに読者は日常へ置いてけぼりにされ、それがまた言いようも無い孤舟に取り残された様な寄る辺のなさを思い起こされる事となる。
 

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江戸っ子口調と、本作で言わんとする所の「粋」に関する姿勢がリンクする。大切であればあるほど無粋な扱い方でシャボン玉を割ってしまうような事はしたくはないが、ただそれをほおっておきたくもないという相反するもどかしさ。しかしそれもLOVEゆえという不快ではない歯がゆさをなんで分からないんだ無粋なやつらめという、バーゲンセールじゃないんだLOVEはという。
 
SNSで大事なものを紹介すればするほど安っぽく映ってしまうというのは誰しもが感ずるところであり、そろそろ私たちが向き合わなければならない観点である。売れてるものが良い訳じゃない、かといってマイナーだから高尚な訳じゃない、笑顔の写真が幸せとは限らない、孤独が常に真理に近づけるとは限らない..じゃあ大事なものは何だ、それはやはり愛だ、ではどう扱うべきなのか?そういった次の段階に関する問いであり、誰しもがただ流行に流されるのではなく自分自身にあった十人十色の方法を持つべきである。
 
その方法に迷った時、序文の楽曲を聴いていると胸の奥にヒントがきらりと光る、そう私は感じた。


以上です。
 
上から目線っぽい偉そうな感想ばかりですがどうぞお見逃し下さい。
 
言うまでも無く色んな読み方ができると思いますが、私はこんな感じでした。
 
特にテーマは設けていないのですが、どこか全作品に共通するテイストがあると思います。思慮深さというか..シンプルであろうとするがゆえの遠回りというか。急がば回れですかね。あーだこーだ言ったけど、sukidayo的な..
 
 
casssisは出来たら次も続けていってみたいと思ってますので、よろしければもうしばしお付き合い頂ければ幸いです。
 
では。