総括 -ウェブ文芸誌 casssis vol.7-


こんにちは、ロロイです。

やや手前味噌ですが、不肖私が主催させて頂いておりますcasssisというウェブ文芸誌のvol.7がめでたく先日リリースにこぎつける事ができまして、僭越ながら各作品の感想をば、と。

casssisって?

ツイッターで「いいなこの人、いいツイートされてるな」ってお方に、「一筆お願いできませぬか」とお願いしてまとめたものです。

テーマとか文字数、文のスタイルとか一切縛りを設けていないんですよね。それはお誘いした皆さんがそもそも何を書いてこられるのか興味があったからです。毎回、こちらの予想を気持ち良く裏切って頂いております。また皆様、特にいわゆるアマチュア小説家とかではないのもポインツです。

ツイッターって面白いけど流れていってしまう。私が目の当たりにしている良いツイートをされる方々の魅力の、その一部でも何か形にして残しておければ価値があるのではと思いますし、それをシェアする場があればなお良い、こういうウェブ文芸誌みたいのって好きなんだけどあんまり見かけた事がない、等の理由から展開させて頂いております。

それでは参ります。

 

 


 

序文-昨夜の酒 / オ

色んな色に変化する果実酒にまつわる神話についての本作は、casssisそのもののコンセプトに近しく、序文にふさわしい。読者がこのウェブ文芸誌を読む(飲み干す)時、どこかで聞いたような神話を想うのであればこの試みは正しい事になる。

神話には困難や犠牲がつきもので平坦なハッピーエンドはあり得ず、過酷な旅物語が多く、往々にして非常に人間くさかったりする。本作もまたそのノリで全体に悲しみ、憂いの匂いがする。また特筆すべきは人物名称だ。西の島国というと日本列島より南西、台湾や更にその先。そちらの原住民族の言語の響きがアビャンに帯びている。

リリース前に一通り読み直した際、この序文から出発して様々なカラーの作品たちに出会っていくのはさながらアビャンの神話をなぞっていく様であり、その意味において予言めいているのに気づいた。


アンダーグラウンドヘアー / 伊奈子

ミステリーっぽいけど結局大きな展開に繋がらないオフビートっぷりが良い。いやむしろあからさまな展開を目の当たりにした時の興ざめと言ったら辟易するばかりなので、安心して雰囲気を楽しむ事ができる。アンニュイな雰囲気が全てを包み込んでいて暑苦しくなくていい。

筋として、男に結局バイト先がバレていて、あえてノートを置き忘れていったのかな、とかコンビニでの店員の表情の意味は、とか深読みもできるのが良い。しかしそれらは明かされない。むしろ全てはただ単にそれっぽいだけの偶然に過ぎないのかもしれない、という所はリアルである。

退屈で、さみしげで、凪の曇り空の都会の、誰とも共有されない不穏な一ページ。


わたしの絶望 / アトシー

絶望は思ったよりもひっそりと、薄らとした膜で私たちを包む。その状態において、なんならいつもより頭は冴えているような、でもからっぽというよな、そういう感覚を覚える。時間差でこみあげる諸々の感情がまだ届いてない状態の..凪というより無音の情景。
 
前作より作者の「言葉になる以前の無意識下と意識下のはざまにおける感情みたいなもの」をすくいあげる様な視点が絶妙だったが今回はそれが顕著。
 
如何に視覚で捉えられる情報が限定的な氷山の一角であり、本質的な部分は個々人の心象においてのみ鮮やかに描き出されているかを本作を通して知る。

ある明確なゴールに向かってひたむきに一直線に進む事が「光」の有様だとすると、人間特有の歪みやエラー、回り道は不要という事になるがそこを見捨ててまで実現する自己は果たして誰のものなのか?
 
そうしたあからさまな正解を疑わず飲みこむ事ができるのは無垢な子どもか、或いは自らの手に光を失った彷徨える魂だけかもしれない。ともあれ覚悟と憧憬に突き動かされた若い命には到底引き受けられるものではない。勿論理論は通用しない。
 
本作で迫られているのは空洞になるか否かではなく「或いは球体になるか」であり、そこの作者の意図が抽象的に示されている。抽象的ではあるが同時に具体的であり明確なビジョンを端的に示しており、ロジックが永遠に辿りつけない答えをその首筋に突きつけている。

俺の100曲 / onett

他人の本棚を見せてもらうのの音楽版で、onettファンのみならず音楽愛好家にはたまらない内容。シンプルでストレートな方法論は心地良い。最後の曲はなんなんだろうと思って見たら「うむ」感。そしてSMAPは..うんそれね、わかる。そしてサザンはそれ..桑田..わかる..諸々見ていくとなるほどなるほど、おいしい曲が押さえられている。
 
BOOWY、Prince、ハイロウズ、エレカシあたりのメジャーどころから、叫ぶ詩人の会やECD、チッツまで、カバー領域は普通ではない。コステロ、ボウイ、ザ・ポリス。つじあやの、チャゲアス、遠藤ミチロウ!ミチロウゲットザヘルプ!!

友達のうちで、だらだら各々ねっころがって漫画なんか読みながら、その友達が音楽を延々と変えていくのを聞いて「待って、これ誰?いいじゃん」っていうような..


不穏むせるおそれ / リフト

現代社会の誰しもが少なからず覚えであろう「なんとなく、どことなく」感が切り取られている。ばかばかしいと思うけどついつい気になってしまう、陥ってしまう感情と論理のバグは、他愛もない考えに過ぎないのは分かっているのについ心をひっぱられる時がある。
 
もしかして自分の中に狂気が宿っているのでは?そんなはずなどあるはずはないと笑って流しているが、だとしたらこの濡れたままのシャツを着ている様な不快感の源は?その様に、誰にも相談できずに処理されていく穏やかではない予感が淡々と語られる事でより言い様もない焦燥感を思い出させられる。

味のしないガムをどう捉えるか。もしかしたら約束された味が実際味わってみるとそうじゃなかったと肩透かしをされるより、或いは一度味わったピークが徐々に遠のいていくより、最初から味などしない方が気楽かもしれない。
 
作中、周りの車は現実感を失う。語り手も自覚している通り、離人的な感覚が全体を覆っているがそこに悲壮感は無く、まるで春の陽気に照らされた白昼夢のごとき穏やかさが根底にある。しかしそれすら興味の対象外で、為すべき事が作業的に、自らの意志のはずなのにまるでTV番組を眺めるかの様に進んでいく描写には時間の感覚が希薄だ。

最高の絵 / yocifico

人の感性は意外と長いサイクルでようやく一つの形を持ち得る、と思わせられるエピソード。物語でも詩でもなく、はたまた私小説や日記というよりは「思い出すことなど」ともいうべきもの。それは時間の作用で、わが事のはずなのにパラレルワールドの自分を眺めるような感覚に近いはずである。そう、実体験として記憶していた自分すらも時間は遠く追いやり、その感触を奪う。
 
作中後半、語り手は意図せずして記憶のリロードから上書きに成功する。おそらくそこから更に上書きされる事はないはずで、それもそのはずコンパイルが完了したのだ。あとは時々引き出しから取りだして眺める様な扱いとなり、その輝きには在りし日の自分に似た影が宿る。
前回衝撃的だったこの引用手法作品、自分の知ってる作品が出てくると嬉しい。タイタンの妖女からハーレクインまでカバー領域が異様に広い。何かの法則があるようなセレクトだ。
 
もしやタイトルや作品名は実在のものだが、引用部分は実は創作なのでは..?と頭をよぎるが、もしそうならそれはそれで面白い試み。
 
本文の流れ自体はゴトーを待ちながら的に、オフビートで目にうるさくなく、余裕をもってその構成の妙を楽しむ事が出来る。「意味」というもの自体が重苦しく感じられるSNS疲れした頭には心地良いユーモラスかつテクニカルな刺激。
膨大な知識を、自分なりに咀嚼していないとかような文は書けない。開高健、遠藤周作のエッセイ集を読んでいるような、それらに裏打ちされた上での安心感がある。心の許せる行き先案内人である事が分かればあとは行先がどうなろうと任せていればよい。
 
そしてその言わば約束された心地良さに早々に気づくと、読み進めるのがもったいない気分になりがちだが総じてかような書き手は読み手が安心するほどの文量を高密度に畳み掛けてくる癖があるのでその点も心配がいらない。本作もそうである。良い意味でも「昭和感」が感ぜられる。
特筆すべきは虚構性の有無についてである。恐らく脚色目的のフィクションが織り交ぜられているはずなのだがその匂いは完全に消されている。手練れの仕業である。

あでやかな夢の記述のごときシュルレアリスム手法は、どこか悪夢的でなくてはならない。本作はその点を踏まえ、オモチャ箱をひっくり返したような騒音を修飾させている。不思議の国のアリスのテイストだ。
 
意図的に意味ははく奪されディズニーランドのアトラクションのごとく次から次へと運ばれてくるイメージの洪水に酔う事はないはずだ。それもそのはず、作者は慎重に間合いとリズムに配慮し、計画的に組み立てられているからだ。そうでなければドドドドドドドドとゴゴゴゴゴゴゴゴがそれぞれぴったり8文字にはならない。
 
よく出来たピタゴラスイッチというより、端正な数式の様。
緩やかな自殺、とまではいかないまでも自意識を持て余すがゆえの衝動は少しずつ私たちの背中を押し、その度に罪をほろぼす様に自らを濁流に突き落とす自分を発見するものである。その光景に名前を付けるのであれば青春としたい。
 
思い描いていたきらびやかな理想は無く、かといって砂を噛む様な現実でもない、本作で描かれ続ける情景はほかならぬ自己憐憫の姿である。みっともなく、みじめで、自分を突き放そうとすればするほど空回りして押し付けられる記憶たち。それはこれからのためのプロローグのはずではあるが、渦中の本人からすれば終わりの無い袋小路である。
本作で扱われたテーマは原罪、或いは意識下で抱えている言語にしにくい「存在についての不確かさ」についてであり、普段私達はのほほんと生きているが、実は大海原に浮かぶ孤舟の如きよるべのなさなのであるという様な、見ないふりしていたものを突きつけられたような、そのインパクトは強い。
 
実際その不安は太陽によって照らされて出来た影を白昼夢状態で見たから感じたに過ぎないのかもしれない、他愛のない勘違いなのかもしれないが、しかしそうした不安感は睡眠時の無防備な時などに、実は心に深く根を張っていることを思い出させられる。そうした目で本作は私達を見据えている。
 
オーソレミヨ、の響きからは、欧州の昔ながらの歌唱法にはメロディよりも歌詞よりも、心を強引に鼓舞していくような力強さがある気がする。それがまた太陽に照らされて半ばのぼせた状態で見る幻覚状態を思い起こすような気がしてならない。

本当にこういう遊びをしていたとしても、創作でも構わない。どちらにせよ夢がある。ハートコーブという名にシルバニアファミリー的な世界観が宿っている。創作している時にも本作と似たような感情を覚える事があり、つまり、創作の中のキャラクタは確かに私の中で息づいていて、私は彼らのあれこれを眺めながらメモしているに過ぎないというか。だからいくら作り話だとしても彼らに感情移入もすれば、物語が終わった後でもどこかで彼らは生きていて、今頃どうしているだろうかと思いを馳せたり。

そういう、アミニズムというか命を持たないものに命を感じるというか、そういうまなざしみたいなものが私達の中にあるのかもしれない。それを「愛」と名付けてしまうとややチープになってしまうんですがそれに近しいものの気配の存在に、本作を読んで改めて気づかされる。


どんぐりが走る / パフェ

印象的な記憶ほど時間という概念を無視して色鮮やかにいつまでも息づく。それは自己形成に影響を及ぼした記憶とはまた違う立ち位置でいつまでも瑞々しく自分の周りに居座り続ける、いわば妖精のたぐいである。

その作用の根本には私たちの心の弾力が影響しており、本作において「心臓がばくばく」とあるように物理的に高まったピークがある一定のスラッシュホールドを越えた場合にその体験は単なる記憶というカテゴリーから解放され永遠性を帯びる。

また、ある種のあっけなさみたいなものは儚く、そして尊く遠くの方でちらきらしているものだなと思わせられる。


お墓を探す冒険 / ラミュ

冒険はいつまで経っても始まらない。その良さ。それよりお母さんは結婚を望むし、友達は冗談だと思うし、アキナみたいにはなれないし、スケジュールはバイトで一杯、なんならそれより美肌、季節の移り変わりを楽しみたい。目の前の一瞬一瞬に心奪われる方が、良く分からない夢なんかを追いかけるよりなんとサッパリしている事か。

人の価値を測る物差しは数多くあれど、結果や実績などの重苦しいものではなく、「どう在るか」に置いてみれば本作の主人公は軽やかで、しなやかで、美しい。

Stay hungry, stay foolishという言葉があるが、少なくとも彼女はどちらも当てはまらない。そんな事言われなくても分かっているからだ。


m月d日 / kojima

文章の可能性の淵の方に存在する本作。ひとつひとつ詰めて導き出すという思考方法とその描き方は、どこか絵画にも通ずるような気がしないでもない。そうなるとアナログ的である絵画は本作同様デジタル的なアプローチでなされる事になる。
 
およそ私達が普段、いかになんとなく良い意味で適当に色んなものをとりこぼしながら色んなものを「という事にしておいて」進めているのかが分かる。
 
最後の一文が特に光っている。
この先はまた別のお話、とでもいうような、私の役目はここまでお連れする事です、と告げてくるロボットの声が聞こえてくる。
もし高次元の、いわゆる現生の創造主の様な存在と会話する機会があったとして、この世の仕組みについて尋ねてみたら本作の様なテイストの話が展開されたとしたらどうだろう。言葉そのものの構造では描ききれないイメージの飛躍、それは狂気という縄ですらくくる事ができない。なぜならそこに論理性はしっかりと同席しているからだ。にも関わらず受け止めきれない膨大な新しい概念の上に成り立った世界観にただただ圧倒されるしかなす術は無い。こちらにそれと組み合うほどの道具が無いからだ。
 
本作はシュールですらない。むしろ生々しくどこか身に覚えがあり、それは私達が見た目という皮で覆い隠している臓物たちが呼応しているからである。死の香りがするが、それはひどくシステマティックなものとして私達に見覚えの無い点滅でメッセージを送ってくるのに戸惑うしかない。
怒涛のエナジーを放つ言葉のジャズパンク、ばかばかしいけどド真剣、これこそが「乙女回路」ともいうべき文学。
これでもかと畳み掛けてくる波はメタ的でもあり、少女漫画のフィクション性を高純度で煮たぎらせた決死のアタックでもある。文法なんて無視、いや無視しないとスピードが速すぎてついていけない。読み手に与えられた選択肢はただ一つ、とにかく捕獲されて谷底に突き落とされる事だけである。
 
不思議な事に不快感はそこには存在しない。こみ上げる高笑いに耳をすませてみるとそれは自分の内なる声だったと強引に認めさせられるのみである。静謐な修道院で静かに本作を読む時、更なる理解が深まるものと予測する。
本作については、いんきょたんさんに秀逸なご感想を頂きましたので、引用させて頂きます。
冒頭に辿り着く場所、かつて海だった海岸は「死」そのものを連想させ、そこからロケーションが「生」をイメージさせる河川、滝へと変わるが、こうして多様な水のイメージが連なっていくのは、「水っけ」そのものが死生両面を持ち合わせていることを予感させます。題名に偽りなく。
 
生命力の象徴のような滝の音が聞こえなくなると、主人公は祠の中で気絶します。そして夢のような挿話が入る。否応なく強要される転生のイメージ。序盤から通底して「水」を使った死生のイメージが起伏をつけて音楽のように連なっており(このリズムの取り方にロロイらしさを感じる)
 
悪夢の挿話が「氷」という水っけの終着点で括られ、目を覚ましたとき、生々しい「脂汗」から始まるのも面白い。こういう視線で読むと、ミイラの彼女(かつての主人公)は、「水っけ」を消失した姿そのものであり、死んだ海岸であり、鳴りやんだ滝の音であり、氷であるように思う。
 
粛々と繰り返される生と死のイメージは題名通りで、奇をてらったものではなくストレートに書かれたものと思う。これをロロイ特有のパステルな筆致でピュアに書かれているのがより良い。幻想的な暗喩のイメージと物語の持つ内実(自分の想像だが)が伴っていて、誠実な世界観がある。
繰り返される単語がまるで寄せては返す波のように、体感的に音楽的に、気持ち良い。
これには二つの意味があると思われ、
①感触と感覚。つまり、「座ります」の場合、最初の座りますは実際に座った感触、次の座りますはそれを頭で認識する、という風な意味合い。
②時間の経過。研ぐ..研ぐ..研ぐ..実際に研いでいる時間の感覚がリフレインによってより具体的に読む側は感じられる。
 
ともあれ、この「離人感」、普通に目が覚めて行動しているのにどこか白昼夢にいるような感じが単語の繰り返しから印象づけられる。
目の前の現実の意味合い自体は普通に理解できるのに、どこかその認識との間にぼやけた膜がある様な。だから普通に座っていても「今座ってるよね」と心で認識し直さないと腑に落ちない状態。最後の一文、「俺が居ない気がする」でその感覚に合点がいく。
 
また、「俺」=パートナーという風にも読める。パートナーと一緒であれば一緒に腰を下ろした時に「パートナーが座っている」光景が目に入るので一緒に座る自分も無論座っている訳なので認識し直す必要がなくなる為である。
つまり、本作は恋人不在の詩である。


以上です。
上から目線っぽい偉そうな言い方ですが見逃して下さい..
色んな読み方ができると思いますが、私はこんな感じでした。
普段文章を目にする機会が減っているのですが、改めて文って面白いなと思った次第です。それから多様な考え方というか..心ですかね。楽しい。
 
casssisは出来たら次も続けていってみたいと思ってますので、よろしければもうしばしお付き合い頂ければ幸いです。
 
では。