ブレ写真 -或いは天使の羽-


こんにちは、ロロイです。

ブレ写真、第三回目の今回はツイッターでお世話になっているピルクルさんからご提供頂いたブレ…いやヴレというべきでしょうか、ともあれ写真で考察進めてみたいと思います。

 

天使性

pirukuru CaAdAdHUEAAV5Vt

このなにげないブレ写真、ぱっと見は部屋の床と向こう側の部屋から差し込む光で構成されているものですが、言葉で伝えづらいのですが私は「天使」という言葉を感じました。そもそも床の写真撮る必要がないのに、ここには現存し、しかもブレている。なにか対象物がある訳でもない。移動中に間違えてシャッターを押してしまったとしか思えない。

でもこの写真は「撮られた」ものである。「撮れちゃった」ものではない。ここにポイントがあると考えます。

わたし達は、個々の人間として時々理屈に合わない事をする特性があると思います。それは大体において無意識だったり本能的だったり何かの予知によって人智を超えた作用の結果だったりしますが、それに近しい事象としてこの写真は成立している。しかも「意図的」に。およそ我々が意図的という言葉を使う時、それは意図のための意図であり火を見るより明らかで何も冒険的ではなく、抽象的な言い方ですが「偶然性の神に少しも触れようとはしていない」。

本来的なその神は我々を試していると言える。人間なぞに触れられてしまう私などではないわ、とその神は慢心していると思うんですがこの写真はそんな神に触れる事に成功している。画家のピカソなどが若かりし頃に極めて実写的な絵を描く訓練をした後に晩年ではそれから逃れるように抽象的な絵を描いた。そういうのに似てると思うんです。手を伸ばせば伸ばすほど遠ざかる領域へ踏み込むにはあえて手放さなければならないものがある。それが人間の弱点です。やや哲学的な話になり、収集がつかない感じですがこのまま進めます。

 

記号性の放棄

pirukuru CZ86KQ2VIAAo9fd

色、形…それら視覚情報は記号として脳内で処理される。それらがそれぞれ保有する与えられた意味合いを照らし合す作業が行われている。時には、楕円のシェイプに反射される光にさえその役割が付与される中で、この写真は単なるブレだけではなくその記号性からの脱却に成功し「かけて」いる。

完全に成功してしまったらそれはただの色の配列という逆に定義しやすいデザインに落ち込んでしまいますが、この状態というのはまさに「意味合いが振りほどかれんとす」中途の状態のため私たちの脳内処理が通常意識の裏でエグゼキュートされているにも関わらずそれをメタ的に意識上に突きつけてくる。そういう意味合いにおいて「ぐっとくるブレ」たる。

 

つなぎとめようとする力

pirukuru CZn__TIWIAE938X

ちょっとブレてる。ちょっとだけブレてる。まるでピントを合わされる事から逃れようとするように。いや、ピントは合っている。合わせようと「されている」。ゆえに「迫りくる」匂いを隠しきることができない。ゴールは眼前にある。すぐそこに、もうちょっとだけ先に。静止画にも関わらずそうしたドラマがブレから香り立つ。ブレている肉片がまるで自分の人生の瞬間を表しているかの如く…

この写真はわたし達が確かに牛丼屋でいただきまーす..ってやる時の光景であり、わたし達が牛丼屋でどことなく感じるエレジーめいた、感傷めいた気分はこういう事なんじゃないでしょうか。色んな要素が組み合わさり自分以外の人間の運命が絡み合いそして導かれるように今ここでこうして牛丼(つまり自分と向き合う時間)と対峙する。まるで過去の自分、あるいは未来の自分と見つめ合う様に。なんて無邪気な顔をして昔の自分は今の自分を見てくるのだろう。なんて心配そうな顔をして未来の自分は今の自分に投げかける様な視線を送ってくるのだろう…そんな風に思えても仕方がないのかと思います。

 

本来の姿を取り戻す

pirukuru CaQc86QUMAAzuyg

カレーのナンの画像ですが、あれってなんでいっつもなんか伸びた様な形してるんですかねって思ってましたけどこれ見て分かりました。「ブレてもいいように」っていうか「ブレた時にこそ本来的に在る事ができるから」なんじゃないか、って。

「真面目にちゃんとやればできる子なのに」、ことわたしは幼少時よりそう言われてきました。要するに不真面目だからダメなんださっさと直せバカヤロウって事なんですが。でも大人は分かってはくれないもの、「これがわたしなんだよ!」と何度心の内で虚しく叫んだ事か…やがて長じるに従い要領を得てさくっと進めるために演技を覚え人は大人になっていきますが時折昔からある自分が問いかけてきます。それに目を背けてみても根っこの部分はそうそう消し去ることはできません。

このブレ写真のナンを見てそういう自分の中の葛藤に身をつまされる思いを抱いてもそれは仕方がない事かと思います。

 

何もかもto you

かくしてついつい内省的観点でみてしまったりもしてみましたけど、そんな見方ができるのもやっぱり「こんな写真が撮れたはずだろう」っていう先入観が裏切られるからであり、加えてそんな力を持つブレ写真を撮るって行為がまるで自分と向き合う様な、そんな効能があるのではと思う次第です。

時には、あえてブレさせてみる。写真も、それからいつもの自分も…

時にはそんな試みもいかがでしょうか?

きっと天使が羽をはためかせる音が聞こえてくると思います。

 

p.s. ピルクルさん、ご協力頂き厚く御礼申し上げます!